平凡だということ

誰かの何かになるということ

負け犬のファルセット

忘れたいことを、忘れられないから文字にして歌にして、

それを聴いて思い出して苦しくなって、

何年経ってもその日に吸い込まれる気がしている。

 

記憶を上書きして日々を過ごす私たち。

最近は私も都会の方に足を運ぶ機会が増えてきた。

スリッパでも革靴でも、私の足は硬いタイルの街を歩き回っている。

 

主要部の街を歩いていると社会の縮図をこの肌で感じる。

歩道橋や交差点で人とすれ違うたび、視線を差し合う。

色んな正義や悪が介在している。

 

時に私たちは強く、弱い。

そこには本当は誰の評価基準も是悪もない。

でも私たちは日々疲れている。

 

私たちは酒や煙草や欲に溺れる。何かのバランスが崩れて不安定になると一層

弱い生き物になる。大衆の目も法の存在なのか、それとも本能の奥にある真の理性なのか、

普段の私たちはまともなフリをして生きている。人とは違う目線で生きていると認識に悦に浸っている。またその存在をも指差し笑う人もいる。

 

でもそれの何も悪くない。人間の構造的に仕方のないもので非難はできない。

多種多様な存在が凝縮されたカオスな車両が太い時間軸を進んでいる、みたいなイメージを私は今の世界に抱いている。

 

自分はどの場所に値するのかとか考える必要はない。

莫大な価値観が存在する世界と共生しているから、自分を見失いそうになる。

だからきっと周りを見渡す。でも正解はない。

 

あなたはあなたで一人。一つの存在。それがたくさんあって世界がある。

なんだ謎だらけで理不尽で融通効かないクソゲーじゃないか。

 

でもこのゲーム自分は操作できる。コントローラーを握れる。

 

環境のせいにしてきたが、環境を言い訳の対象に過ごしているだけだったり。

 

特に私なんかはそうで何も成し遂げてこなかった。

腕が上がらなくなるほどの筋トレも、肺が爆発するほどのマラソンも、

限界を突破したこともない。保身や自分の尊厳も気にせず言えるが、

基本的には負け犬の戯言だと思っている。

 

それでも、こんな風に何かを考えて言葉を発するのは

負け犬のこちら側からしか見えないビジョンがあるからだ。

虐げたい思いも醜さも内包したこの言葉が誰かに届けばと思ってしまうからだ。

 

どうしようもない自分を救いたいからなのだ。

どこぞの何者であっても、幸せを感じとる機能は備わっていて、

幸いにもほとんどの人がそれを掴める環境にある。

 

自分と同じ思いをしたことのある人をミリ単位でも

その人々の描く理想に近づいて欲しいと願っていることに嘘はない。

 

自分で決めた何かのために生きてみて欲しい。

その幸せに向かって今の時間を使って、歩いて欲しい。

 

好きなことをして生きていけなんて言わない。苦労を伴ってもいいから

それでもこれだけは、という小さな夢をいくつも叶えてやって。

 

命が消えるその前にたくさん思い出せることが積み重なっているはずだ。

 

そんな風に、なんだか今日は思った。

 

それでは、また。