平凡だということ

誰かの何かになるということ

拝啓、私と同じ人間たちへ

 

続ける

 

ということはこんなにも難しいのだな、と二日目にして思い知った私であった。

 

今まさに花粉症の記事を500文字ほど書いて、全てを消去してやった。

 

ブログを毎日更新することはとても容易い。

それだけなら永遠に継続できる。自分の中で決めた納得のラインを超えるというのがやけに難しいのだ。

 

文字を綴っていると、ふと懐かしく苦い記憶を思い出す。

音楽や映像を作っていた時に何度も味わった感覚だ、忘れることはない。

何かしらの理由をつけて世に出す前にいつもゴミ箱に捨てられるいつものパターン。永遠とそんなことを繰り返す、馬鹿なクリエイターが居た。

 

何事ももったいないと感じる性分ではある。昼ご飯で買った弁当はきれいに残さず食べるし、

飲み物も最後まで飲みきる。友人宅に上がった時に、飲みかけのペットボトルの山を見た時にジャストサイズの小さいやつを買えと説教したのを覚えているくらいだ。

 

幼い頃から何かに没頭すると時間を忘れる性質であった。時間の感覚が鈍り、今が何時何分かさっぱりわからなくなるほどに。逆に時給制のアルバイトで銭を稼いでいたときは、秒針の音を聞き取れるくらいに一分一秒を重たく感じていた。

 

それなのに何故だろう。

 

費やした時間とは裏腹に、徹夜で仕上げた作品を一眠りした後見てみるととてつもない駄作に思ってしまう。何時間もかけた作ったものをワンクリックで消滅させることに迷いすらない。

その時々にはこれこそが最高傑作、最適の択をとったと感じているのだが、一晩にして価値観がひっくりかえるのだから困りものだ。何がどうで、どこをこうしたら、と論理的に解決するようなことではなく、感覚がそれそのものを否定し始める。これはボーダーラインを超えていないと。

 

結局それらは誰の目に止まることもなく、未完成としてパソコンのメモリを食ってそこに居座る。そして二度と開かれることはないのだった。

 

 

今の私にとっては記事を書くのも、一つの作品。

当時とはジャンルも何もかも違うが、成仏できなかった色んなコンテンツたちを別の形で供養しているとすら考えている。

 

そんな体裁を作り、私はブログを始めたのだ。

 

はてなブログという媒体を介して、今までの自分自身を塗り替えてみたくなったのだろう。

同じ悩みを持つ人間に、自分と同じ苦しみから解放されるコツみたいなものを残しておきたくったと、そう解釈してくれてもいい。

 

今日伝えたかったのは、ただ一つだけ。

 

何かをやりきる。それが拙かろうが、引くほどつまらないコンテンツになろうが。

結果を生むための行動、その意思決定を手助けする体験を自分に刻むのだ。

 

自分が死ぬほど大事に抱えるプライドや決め事ほど、他人からすれば昨日の天気くらいどうでもいい。些細で小さなことだ。ミドリムシの手足くらいの。

2mを超える高さの自分で作ったボーダーラインのハードル、いいから退けて普通に通行してやれ。もしくは潜って通ればいい。

そうして踏み出した一歩、その反響は自分の想像を超えるくらい大きい。

 

そんなことに、この年になってやっと気づいた。綺麗事が嫌いな私が言うんだ、ある程度は信用してくれてもいいはずだ。

 

それでは、また明日。