平凡だということ

誰かの何かになるということ

タイムカプセル

記事はいつも10分で書くと決めている。

惰性では保たないし、着飾り出す自分に嫌気が差さない程度の丁度いい時間なのだ。

 

日々の連続が淡々と終わるようになって、もう何年かが経過した。

ここ数年の月日が私にくれた答え、なんて物は特になく、文字通りに人生の駒は進んでいる。

 

今日という日は、お前に残された人生で一番若い日。そんな言葉を聞いたとき、ひどく焦ったのを覚えている。仕事終わりにランニングでもしようだとか、英語の教本を開いてやろうだとか、私の直感はそう判断する。実際にはシューズも教本も手に取られることはないのだが。

 

 

世界中にはそんな私と同じような人間もきっとたくさんいる。死ぬほどどうでも良いインスタのストーリーを高速でスライドしているような。そんな人たちが。私も勿論その一人。仕事終わりはゲームやyoutubeを見ることしか能がない人間だ。

 

しかし何故だろうか。今日はブログを書いている。ここ2.3年でこんな日は一度もなかったのだ。

 

昨日2年ぶりに肺が壊れると思ったほどの激しい運動をしたせいか、若しくは今朝から続く筋肉痛の拷問を少しでも和らげようと入った風呂の中でした瞑想の効果か、12月に注文したふるさと納税の熊本産豚肉が満を辞して届いたからだろうか。

 

何故だか腰は重くなかった。米を炊く工程で、残りは炊飯のボタンを押すだけという所までショートカットさせてもらえたくらい気持ちは楽だった。

 

友人から聞くところによると、私はENFPというタイプに分類される人種らしい。

届いた豚肉を使って弁当を作るつもりだが、米をまだ洗っていないこと。10分で書くと決めた記事に実際は30分費やしていること。そして自分語りを誰もいない海に落として高揚していること。自分らしさとは時に惨めでもあり、心地よくもある。

このとっ散らかった記事にあえてテーマをつけるのならば、きっとそれは、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日はいつしか買った防音剤を積み上げた小さなタンスに右足を突っ込みながら文字を綴ったが、明日はコーヒーを片手に正座しながら画面と向き合おう。それでは。