終わりはくる
時間は見えないが有限。
可視化できないものは怖い。その中でも一番見えず、ある種不平等なものが時間。
人生の持ち時間はあと1時間だと告げられても、若者はとりあえずtiktokを開くのだろうか。
私はスマホなど何処かへぶん投げて、とにかく家から飛び出すつもりだ。
タバコもお酒も甘いものもカップ麺も、私たちの時間を少なからず明確に削っていく。
だって寿命を伸ばすものが直ぐに思いつかないのだから仕方がない。
自販機でスッポンドリンクがあり、お酒と同じ金額で販売され、
のむとお酒1本で削れた寿命が帳消しになります。
みたいなバランスの取り方があれば、人間ももう少しヤケにならず生きていけるのに。
自分の残り時間が分からないと、帳尻は合わせづらいから。
人間は相反しながら生きていく。
死ぬことに対して恐怖を抱くが、ゆっくりと死に近づくことは気にも留めない。
リストカットの目的が理解できない時期があった。
時間はかかるがいずれ再生するのに、何故血を流すのか?
自分の体を傷つけてしまうと、何故か落ち着くと友人は言った。
空き時間にタバコを吸っていたある日、
そうか、これも同じかと、不思議と納得した。
結局、好きに生きていいのだ。
幸福論も人生のテーマも知らない。それを測るゲージもメーターもない。
だが偉人もいる。教科書や歴史そのものに残る人々も存在する。
幸福なことだらけの人生の方が楽しい。でも楽しくなくてもいい。
幸せの価値観だって誰しも違う。
残念ながら私たちが肉親や恋人、大切な人に会える残りの回数も
頭の上に書かれておらず確認することはできない。
昨日の1日、一週間、この春、振り返って時に自分が納得できるように
生きていけば、ひとまず私は生きていられる。
自分にとっての幸せだけ、忘れないで過ごしていて。
それでは。