平凡だということ

誰かの何かになるということ

休日で見つける幸せ

私の情熱はいつも焚き火程度だ。

 

日常の雨風や薪を焚べ忘れて鎮火してしまう。

自分のことは好きな方だが、こういったところは愛すべきものではない。

 

熱しやすく冷めやすいタイプだからと定義づけず、事実を認めて自分を戒めてやることから始るとしよう。好きなだけ自分を甘やかしてもいいが、たまには厳しくもしてやった方がいい。

怒る人がいなくなるのはいつだって寂しいものだから。

 

ところで最近の私はというと、飴と鞭の割合でいうと飴100パーセントで生きていた。

はずだったが、10パーセントくらいの鞭が私を待っていた。

 

先日、有給を使って名古屋を満喫してきた。サウナと美味しいものに満ちた素敵な街だった。

街を練り歩き、好きな時に好きなことをする。まさに休日だった。

 

そんな休みが終わりいつも通り仕事に戻るわけだが、その日の帰り道はいつもと違っていた。

ふとコンビニに寄りたいと思い、少し違うルートで自転車を漕いでいると、単車と割としっかり目にぶつかった。あ、これかわせないぞと思った時にはもう地面に転がっていた。

その日の夜はとてつもなく寒く、上着も持っていなかったので早く帰ろうとペダルを回転させすぎたか。相手はおじさんだったのだが、早すぎて私の姿が見えなかったと言われた。

警察の方々にも足を運ばせるプチ騒動の末、病院で看てもらったところ10日間の自宅療養との診断だった。

 

そうして始まった人生何年ぶりかの夏休みの四日目だが、正直かなりきている。

何が?と言われると分からないがとにかく魂の状態が良くない。口内炎を2つも作ってしまうほどに。

 

休日はスパイスのように、時々あるからそこに幸せを感じられる。

家でじっとしていると幸せを感じとる機能が鈍くなってくる。

ゲームや好きな動画に没頭しようとも、終わった後に大した幸福感もないし

勿論そこには価値もあまりにない。費やした時間とそれがもたらす結果は必ずしも比例しない。

 

結局私が定義した私を保っていくには適度な運動と食事とコミュニケーションが必要なのだ。

教科書通りの結論が出て少し安心だ。

 

ある種、私にとってのブログは精神を保っていくための安定剤なのかもしれない。

心がその瞬間感じとっているものをアウトプットすると、その形が、思いがより見え易く捉えやすくなる。今だってそうだ。感情を操りやすくなる。

 

部屋で寝転がっている時に私は、立ち上がってブログを書こうなどと思うはずもない。

行動に移すまでに体感は2年くらいかかりそうに思える。

 

自分がその時に最善だと思う行動や価値観は、様々な要因で変化する。

人に影響されたり、本や芸術から刺激を受けたり。

ただ、自分の行動によってもそれは変わる。立ち上がって机に座りブログを書いているこの瞬間は、私の気持ちを大きく癒してくれている。

 

自分の幸せの掴み方の話。

 

寝転がっていた時間の私が出した答えは、このまま動画でも見ながらゴロゴロすること。

もう一つは立ち上がってブログを書くこと。結果的には後者が圧倒的に正解だった。

 

正解のルートは自分で隠してしまっていることが多いのだ。

そしてその時にはそれが正解だと考えにくいのも厄介である。

 

2つに迷った時、心がなんとなく引っ張られるもしかしたら、の方を選んでみて欲しい。

少しあなたの人生が面白くなるかも。

 

少し元気になってきた。散歩にでも行ってくるとします。

それでは。

 

 

 

愛しの月曜日

その時間の感じ方は違えども、日々は連続している。

 

疲れは少しずつ蓄積していて、休みの前日は早く仕事が終わることばかり考えてしまうものだ。

 

世間一般的に日曜の夜というのは、月曜日にもっとも近いため嫌われている。

 

月曜休みの私からすれば、もっとも愛しい時間なのだけれど。

 

予定もなかったので、昨晩は気の済むまで眠った。

 

 

私は毎日夢を見る。理由は分からないが、毎朝その記憶も強く残っている。

いつか見た夢と繋がったりもして、続編が味わえたりする。

昔は今よりももっと内容を思い出せたのだけれど、最近は少し曖昧になってきた。年齢のせいか、睡眠が少し深くなったのかは不明だが、いつの日か夢を見ることもなくなるのだとすると少し悲しい気分になる。

 

月曜休みの良し悪しには諸説ある。どこに行っても空いていて動きやすいのは確か。しかし行きたい店の定休日だったり、友人とのスケジュールが合わないことも多い。まあそんなことを加味しても、私はなんだかんだ月曜日と仲良くやっている。

 

ブログを書き始めて気づいたことと、それが私にもたらした変化がある。

 

私は今までより日常にフォーカスするようになった。

 

文章を綴っていると、今の自分の気持ちや思考が自然といつもより近い距離で感じられる。頭の中で浮かんだアイデアや、瞬間ごとに感じる気持ちというのは

大体何秒か後に忘れていたのだが、今はそれを捕まえて育てるようになった。

 

目的もなく携帯を見て踏んでいるガムに気付かなった私が、空や街をながめなが歩くようになっていた。それが正しいとか、人生にとってプラスになるとかはどうでも良いが、今の私はそれを心地よい感覚として受け止めている。

 

しかしいくら日常から搾り取ろうとも、思いつかない時もある。

 

たった20数年で得た知見だけで文章を書き続けるのは困難であるゆえ、本屋に行きたくなったり、新しい何かに触れたくなるのだろう。

 

そうして今日の私は、京都の見知らぬ場所へと足を運んだのだった。

 

電車から見る知らない景色や、知り合いに万が一も会うことのない空間。そういうのがたまらなく好きだったりする。

 

ネットで調べた隠れ家的銭湯の開店は15時で、時間を潰すために入った喫茶店だったが、気づけば2時間くらい居座っていた。

 

入店時には私以外の客もいなかったが、ちらほらと軽食を食べに来たご近所さん

たちでなんだかんだテーブルは埋まっていた。

 

ソーダフロートを頼んだが残念ながら炭酸ガス切れということで、なんとなー

く頼んだアイスティー。器が好みで味も美味しく満足している。

 

これから行く銭湯とその後の晩ご飯に期待は高まってはいるが、

ガッカリしないように予防線を張って澄ました顔で街を歩いてやろう。

 

方向音痴で辿り着けるのかは心配だが。

 

それでは。

 

 

 

 

 

日常に潜む宝箱

今週のお題「何して遊ぶ?」

 

 

世間はお休み真っ只中。もはや最終日。

私のGWどこ?と失踪したGWを喚く一定の人々を横目に、

静かに憤慨しながら訪れることのないGWを、私は探している。

大学生の頃も単位が道路に落ちていないかよく探したものだ。

これだから、今時の若いサービス業は!休むと言うことを知らんのか!と、休みを与えない諸悪の根源に、心の中で頭を丸めさせしっかりとグラウンドを50周走らせている。

 

仕事柄、長期の休暇はなく、三日ほど休むと仕事って何だったっけ?状態によく陥る。

職場に足を運んでやっとこさ、働いていた自覚が帰ってくる。

そんなハードワーク立ち仕事に慣れてはや3年。初期に比べると足腰も強くなった。

私の強靭に育ったふくらはぎでも悲鳴を上げるのだから、GWは大したものだ。

 

普段のオフの日というと、温泉サウナ、そして美味しいご飯!

この流れが私の人生の最強ムーブとなっている。

健康的で、何より脳から出る快楽物質の量が異常なのだ。

 

 

 

ただ今回のオフは例外だ。

 

GW中は本拠地にしている銭湯も客足が多いと予想される。

静かで人の少ない銭湯にこそ意味があるのに。ごった返しの日を引いた日なんかは

3割マイナスのご褒美に成り下がってしまう。しかしGW期間中のオフの日(1日)を無駄にはできまい。スーパーコンピュータを搭載した脳内会議で導き出された革新的な答え、それは敢えての運動だった。ちょうど帰省してきた高校時代の友人たちから誘いもあったし、

いい汗かいて心も体もリフレッシュの方向に切り替えてやったのだ。

 

 

 

 

言うまでもない。

 

イメージだけが先行し、体は想像の3テンポ後ろで仕事をしていた。

2年ぶりに触れたボールはなんだか硬かった。

 

大型犬を5匹ほど背に乗せて歩いていると錯覚するほど帰りの足は重く、

アクセルとブレーキの繰り返しが追い討ちをかけ、私のふくらはぎは役目を終えて旅立った。

帰りに食べたびっくりドンキーのハンバーグはそんな私を優しく慰め、包み、そして、

大盛りにしたご飯でしっかり撃沈させた。

 

オフとは休息を取るものだろう?なんだこの仕打ちは。私のぬくぬく温泉プランはどこへいった。脳内会議をした者達にフィードバックしてやる。

 

 

 

 

 

次の日、私の体には超ド級の筋肉痛と達成感があった。

 

両方呼んだ覚えはない。スポーツをすると毎回これだ。

執着するのはもう懲り懲りなのに、懐かしくもある気持ち。

日頃から動いていればだの、もっと練習すればもしかしてなどと、

錯覚を起こさせる例の悪い輩が脳内には生息している。妖怪ワンチャンだ。

学生の頃こいつにはよく悩まされたものだ。

 

こんなハードな運動にオフを使うなど、

私の理論では本来あり得ない。

 

しかし、友人たちのとの素敵な空間は

結局、この年になっても私の生きる手助けになってしまうようだった。

 

自分の心の少年っぷりに笑えた。

 

一人で得られる幸せや楽しみは予測できるし、

対価に比例して当然良いものになる。

 

しかしそれには上限が決まっている。

 

リスクリターンに見合う行動だけが人生ではなく、

日常に隠れる宝箱を見つける冒険も時には必要らしい。

 

たまにでいいけど。

 

それでは。

 

 

 

 

 

 

 

終わりはくる

 

時間は見えないが有限。

 

可視化できないものは怖い。その中でも一番見えず、ある種不平等なものが時間。

 

人生の持ち時間はあと1時間だと告げられても、若者はとりあえずtiktokを開くのだろうか。

私はスマホなど何処かへぶん投げて、とにかく家から飛び出すつもりだ。

 

 

 

タバコもお酒も甘いものもカップ麺も、私たちの時間を少なからず明確に削っていく。

だって寿命を伸ばすものが直ぐに思いつかないのだから仕方がない。

 

自販機でスッポンドリンクがあり、お酒と同じ金額で販売され、

のむとお酒1本で削れた寿命が帳消しになります。

 

みたいなバランスの取り方があれば、人間ももう少しヤケにならず生きていけるのに。

自分の残り時間が分からないと、帳尻は合わせづらいから。

 

 

人間は相反しながら生きていく。

死ぬことに対して恐怖を抱くが、ゆっくりと死に近づくことは気にも留めない。

 

リストカットの目的が理解できない時期があった。

時間はかかるがいずれ再生するのに、何故血を流すのか?

 

自分の体を傷つけてしまうと、何故か落ち着くと友人は言った。

 

空き時間にタバコを吸っていたある日、

そうか、これも同じかと、不思議と納得した。

 

結局、好きに生きていいのだ。

幸福論も人生のテーマも知らない。それを測るゲージもメーターもない。

だが偉人もいる。教科書や歴史そのものに残る人々も存在する。

幸福なことだらけの人生の方が楽しい。でも楽しくなくてもいい。

幸せの価値観だって誰しも違う。

 

残念ながら私たちが肉親や恋人、大切な人に会える残りの回数も

頭の上に書かれておらず確認することはできない。

 

昨日の1日、一週間、この春、振り返って時に自分が納得できるように

生きていけば、ひとまず私は生きていられる。

 

自分にとっての幸せだけ、忘れないで過ごしていて。

 

それでは。

 

 

 

 

 

私の夏といえば

 

三日目のブログともなると少し慣れてくる。

 

いつも書くことなど決めておらず、

今まで生きてきて得た知見をギュッと凝縮してブログを書いている。

内容はエスプレッソ寄りで好ましいことだが、豆が尽きてしまいそうなのが懸念点だ。

 

本屋に駆け込みたくなったのは久しぶりの感覚だった。

 

そんな思いを察してソレはやってきたのか、今朝は珍しいことがあった。

似つかわしい体験を毎年しているので驚きはしなかったが。

 

今回は不真面目にそんな話を書こう。

 

 

 

 

---私が今のマンションに住みついて、記憶が正しければ20年は経つ。

特筆すべきことなど何もない、普通のマンションの4階の角部屋で暮らしている。

少し名前をぼかして以下ではホルツとでも呼ぼう。

 

夏になると、我らがホルツの廊下には小さな生き物たちがよく転がり込んでくる。

 

エンカウント率の集計をとったことはないが週 に2、3回は顔を合わせる。隣人より多い。

 

出現率堂々の1位はカナブンで二位は蝉。

そこからは3位タイなので割愛。

 

私はランキング別に取る行動を決めている。

 

子供の頃は男女問わず1度は虫を捕まえて遊ぶ。中学生になると女の子は急に虫を嫌うようになるが、あの現象に名前はあるのだろうか。私はそんなタイプではなかったので、今でも虫は恐怖の対象からは外れている。

 

しかし高速で飛ぶ煩い生き物は苦手なため、蝉が転がっていたら基本的にスルーしている。

 

カナブンは飛ぶし羽音は多少あるが、自身は鳴かずミュート状態なので怖くはない。

 

そして彼が廊下に転がっている時、9割は裏向き。かなり苦しそうに起き上がろうともがくが、状況を打破している者を見たことがない。一度ひっくり帰るとゲームオーバーというハードモードな人生を送っているように見える。

 

小学生の頃からそんな姿を見続け、いつしか私は起きる手助けをするようになっていた。

前回助けたのに今回スルーするのはなんか違うなと、廊下で謎の正義感が発動してしまう。

4階の高さまで飛行し、廊下で転がっているのだから切羽詰まってるのだなと思い、砂糖水や蜂蜜など何かしら好きそうなものも与えている。

 

彼らの間でその噂が広まったかのように、面白いくらいに夏は何度もカナブンレスキューをさせられている。ギブアンドギブ・フォーエバーくらいの関係性で。私が死んだ時、天国か地獄行きかの判断材料として、この話を持っていこうと心に決めている。

 

 

そんな私のもとに、今朝は飛べなくなった見たことない蝶がやってきていた。

指先に乗せると、蝶もしっかり掴まったので駐輪場の横の花壇まで一緒に降りることができた。知らない花の上に乗せてはやれたが、それ以上のことはできず仕事へ向かった。

 

蝶は何かのお告げだというが、何かを伝えたかったのだろうか。

 

ブログの購読読者の可能性もある。

 

次にあったときはコップに蜜でも入れて差し上げよう。

 

それでは。

 

 

 

 

拝啓、私と同じ人間たちへ

 

続ける

 

ということはこんなにも難しいのだな、と二日目にして思い知った私であった。

 

今まさに花粉症の記事を500文字ほど書いて、全てを消去してやった。

 

ブログを毎日更新することはとても容易い。

それだけなら永遠に継続できる。自分の中で決めた納得のラインを超えるというのがやけに難しいのだ。

 

文字を綴っていると、ふと懐かしく苦い記憶を思い出す。

音楽や映像を作っていた時に何度も味わった感覚だ、忘れることはない。

何かしらの理由をつけて世に出す前にいつもゴミ箱に捨てられるいつものパターン。永遠とそんなことを繰り返す、馬鹿なクリエイターが居た。

 

何事ももったいないと感じる性分ではある。昼ご飯で買った弁当はきれいに残さず食べるし、

飲み物も最後まで飲みきる。友人宅に上がった時に、飲みかけのペットボトルの山を見た時にジャストサイズの小さいやつを買えと説教したのを覚えているくらいだ。

 

幼い頃から何かに没頭すると時間を忘れる性質であった。時間の感覚が鈍り、今が何時何分かさっぱりわからなくなるほどに。逆に時給制のアルバイトで銭を稼いでいたときは、秒針の音を聞き取れるくらいに一分一秒を重たく感じていた。

 

それなのに何故だろう。

 

費やした時間とは裏腹に、徹夜で仕上げた作品を一眠りした後見てみるととてつもない駄作に思ってしまう。何時間もかけた作ったものをワンクリックで消滅させることに迷いすらない。

その時々にはこれこそが最高傑作、最適の択をとったと感じているのだが、一晩にして価値観がひっくりかえるのだから困りものだ。何がどうで、どこをこうしたら、と論理的に解決するようなことではなく、感覚がそれそのものを否定し始める。これはボーダーラインを超えていないと。

 

結局それらは誰の目に止まることもなく、未完成としてパソコンのメモリを食ってそこに居座る。そして二度と開かれることはないのだった。

 

 

今の私にとっては記事を書くのも、一つの作品。

当時とはジャンルも何もかも違うが、成仏できなかった色んなコンテンツたちを別の形で供養しているとすら考えている。

 

そんな体裁を作り、私はブログを始めたのだ。

 

はてなブログという媒体を介して、今までの自分自身を塗り替えてみたくなったのだろう。

同じ悩みを持つ人間に、自分と同じ苦しみから解放されるコツみたいなものを残しておきたくったと、そう解釈してくれてもいい。

 

今日伝えたかったのは、ただ一つだけ。

 

何かをやりきる。それが拙かろうが、引くほどつまらないコンテンツになろうが。

結果を生むための行動、その意思決定を手助けする体験を自分に刻むのだ。

 

自分が死ぬほど大事に抱えるプライドや決め事ほど、他人からすれば昨日の天気くらいどうでもいい。些細で小さなことだ。ミドリムシの手足くらいの。

2mを超える高さの自分で作ったボーダーラインのハードル、いいから退けて普通に通行してやれ。もしくは潜って通ればいい。

そうして踏み出した一歩、その反響は自分の想像を超えるくらい大きい。

 

そんなことに、この年になってやっと気づいた。綺麗事が嫌いな私が言うんだ、ある程度は信用してくれてもいいはずだ。

 

それでは、また明日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タイムカプセル

記事はいつも10分で書くと決めている。

惰性では保たないし、着飾り出す自分に嫌気が差さない程度の丁度いい時間なのだ。

 

日々の連続が淡々と終わるようになって、もう何年かが経過した。

ここ数年の月日が私にくれた答え、なんて物は特になく、文字通りに人生の駒は進んでいる。

 

今日という日は、お前に残された人生で一番若い日。そんな言葉を聞いたとき、ひどく焦ったのを覚えている。仕事終わりにランニングでもしようだとか、英語の教本を開いてやろうだとか、私の直感はそう判断する。実際にはシューズも教本も手に取られることはないのだが。

 

 

世界中にはそんな私と同じような人間もきっとたくさんいる。死ぬほどどうでも良いインスタのストーリーを高速でスライドしているような。そんな人たちが。私も勿論その一人。仕事終わりはゲームやyoutubeを見ることしか能がない人間だ。

 

しかし何故だろうか。今日はブログを書いている。ここ2.3年でこんな日は一度もなかったのだ。

 

昨日2年ぶりに肺が壊れると思ったほどの激しい運動をしたせいか、若しくは今朝から続く筋肉痛の拷問を少しでも和らげようと入った風呂の中でした瞑想の効果か、12月に注文したふるさと納税の熊本産豚肉が満を辞して届いたからだろうか。

 

何故だか腰は重くなかった。米を炊く工程で、残りは炊飯のボタンを押すだけという所までショートカットさせてもらえたくらい気持ちは楽だった。

 

友人から聞くところによると、私はENFPというタイプに分類される人種らしい。

届いた豚肉を使って弁当を作るつもりだが、米をまだ洗っていないこと。10分で書くと決めた記事に実際は30分費やしていること。そして自分語りを誰もいない海に落として高揚していること。自分らしさとは時に惨めでもあり、心地よくもある。

このとっ散らかった記事にあえてテーマをつけるのならば、きっとそれは、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日はいつしか買った防音剤を積み上げた小さなタンスに右足を突っ込みながら文字を綴ったが、明日はコーヒーを片手に正座しながら画面と向き合おう。それでは。